社
おっす,おら働いてっぞ.
しゃけえにはつえーやつがたくさんいんな!
おらわくわくすっぞ.
社会人になった.
入社式ない,研修もない,同期もいない,歓迎会もない,
という感じでぬるっと会社に混ざって
見習い雑誌編集者として働いてるわけだけど,
俺が書いた文が少しだけ,もう来月誌面にのってしまうって.
購読よろしく.
あと,ゼミなら確実に休んでる体調でも,
ちゃんと会社に行ってる.
えらいな〜.
で
歓迎会もない,と書いたように一度も会社の人とは飲みにもいったことがない.
友人の話を聞いてみれば,平日でも毎日飲みだとか忙しくしている人が多い.
今のところは,そこまで忙しくないので
俺は平日まっすぐ家に帰り,家でうだうだと
暇に過ごしているわけである.
やることがないので,こうして放置したブログをいじってみたりしている.
ここ6年間自由な時間を過ごしすぎたせいで,
不自由な平日が苦しいというのが,正直なところである.
気づけば,土日を待ち遠しくおもっている.
今のところ仕事内容自体,退屈だとは思わないが
単純に労働にまだ慣れてないので平日がきつい.
早く金曜日になってほしい.
こんな心境でいるので,
平日をないがしろにしている
のが現状.
早く帰りてーという思いが強すぎなのと,帰ってからの時間の使い方が雑.
休日のためだけに生きるのは苦しいぞ.
精力的な仕事ぶり,充実した私生活を目指してくれ?
※この記事は愚痴を言わないというルールを課しました.
最近吐く言葉がネガティブすぎるので.
ボボボーボ・ボーボボはまだ面白いか
ボボボーボ・ボーボボを今読んだらちゃんと笑えるのか、ということが気になって
弟の部屋から2〜5巻くらいを取ってきて読んだが、ほとんど僕は笑っていなかった。
結論から言ってしまったが、本当にこれは僕を寂しい気持ちにさせる事態だった。
ボーボボといえば、僕の中では笑いすぎてブックオフで立ち読みできないギャグ漫画だったはずなのだ。
面白かったものを楽しめなくなってしまったことなんて沢山ある。
たとえば、今ビーダマンをやっていいと言われてもやらないし、
やりたくなくなったことに特別感慨はない。
おそらく当時としてもビーダマンは、子供のうちの遊びだと内心割り切って遊んでいた節があって、その面白さとお別れしてしまったことに名残惜しさはないのだろう。
ギャグ漫画の中でも、ボボボーボ・ボーボボは特別だった。
小学生の僕は、コロコロコミックを読んでいたが、その中のギャグ漫画を面白いとおもったことはあまりなかった。
うんこばっかりだしてていやだなとさえ思っていた。
ネットでは、でんじゃらすじーさんあたりが神格化されているような気がするが、あまりぴんとこない。嫌いではなかったけど。
そんな中で、当時の僕を初めてちゃんと腹の底から笑かしてくれたギャグ漫画はボーボボなのだ。あの意味のわからなさの前では鼻毛もうんこ頭も不思議とほとんど不快じゃなかった。
面白いギャグ漫画といえば、ボーボボ。それは揺るぎないはずだった。
それだけに、その面白さを見失ってしまったことに寂しさを禁じ得ない。
今でもドラゴンボールやワンピースを一度手に取ればつい読みふけってしまうように、
少年漫画は歳をとっても裏切らない。そんな信頼の中にボーボボもいたはずだった。
ギャグ漫画とバトル漫画では、少し話も違って来るのかな。
ただ合間合間の作者のコメントは、昔より楽しんで読めた気がするな。
めんどくさがりだ
本当に僕は、めんどくさがりだ。
ちょっと戸棚に手を伸ばすのすら億劫で、読みたい本も読めずパソコンをいじる。
冷凍のパスタソースを茹でるのが億劫で、塩と油だけでパスタを食べる。
トイレまで歩くのが億劫で、漏れるギリギリまで尿意を我慢する。
そもそも、生きているのがめんどくさい。
人生は、めんどくさいことの連続だろう。
楽しいこともあるだろうが、そんなことは関係がない。
どうにもこうにも憂鬱で、
どうしたものかと悩むとき
そうか死ねばと思ったら、
胸がスゥっとなったのだ。
面倒な困難になぜ俺が立ち向かって行かなければならないのか、わからなくなる。
人間誰しもそんなふうに死にたくなったことぐらいあるだろう、と思っていたら
そんなことは一度もないという話を幾人かから聞いて、面食らったことがある。
今、特別辛いことがあるわけでもないし、楽しいこともある。
でも何かの拍子にポックリいってもいいぐらいには思っている。
何もやらなくてよくなるから。
めんどくささには滅法弱い、みんなはどうして頑張れるのか。
セガサターンが懐かしいので、やった。
最初にやったゲームって覚えてますか。
最近、3DSでポケモンの金銀のヴァーチャルコンソールがでたりしている。
懐かしいゲームってやっぱり需要あるのかな、ふとやりたくなることがある。
僕は、ポケモンといえばアドバンスよりゲームボーイカラー時代の思い出が色濃い。
ゲームボーイカラーは、スケルトンのパープルの筐体のイメージが強い。
あの時代は、やたらとスケルトンが流行っていた記憶がある。imacとかね。デジヴァイスもそうかな。
もう少し遡って、一番初めにプレイしたゲームハードが何かといえば、僕の場合はセガサターンだった。
93年生まれの僕くらいの年代だと、幼少期にはゲームハードの種類が豊富だったはずなので、ゲームの原風景はきっと色々だと思う。
スーファミの人もいれば、プレステ、64、ゲームボーイ、ドリームキャストの人もいるだろう。
たまごっちもゲームハードに数えればそれが多数派かもしれない。
セガサターンは、せがた三四郎のCMが有名らしいが実のところ覚えていない。
ドリキャスのシーマンのCMだけは強烈に覚えている。
あと、64の剥がしちゃいけないシールを剥がす拡張パックのCM。
ふとやりたくなったので
探してみたら、こんなにソフトがあった。みんなご存知バーチャファイターもある。
4さいの僕は、相手を場外に強引に押し出して勝つ戦法を得意としていた。
やりたくなったとはいっても、肝心のハード本体はとうの昔にぶっ壊れ、家にない。
ということで、今回はエミュレータでこいつらを動かしてみようと思う。
win機がないため、エミュレータも見つかるかどうか怪しかったが、
幸いにもopenEmuとyabauseというmac対応のエミュレータが見つかった。
僕は、まともなwin機をもってないんだ。
openEmuというのが、すごくてセガサターンのみならずPSも64もゲームボーイもなんでもござれのエミュレータで、UIもとても綺麗。昔はこんなのなかったぞ、多分。
だがしかし、ディスクを入れてそのまま起動というわけにはいかないようなので、
下準備が簡単なyabauseを採用する。
起動できた。
一刀彫りみたいなローポリキャラの登場だ。
残念ながら、バーチャファイターはあんまりうまく動かずまともなバトルはできなかった。
他のソフトは多少ロードにもたつきはありながらも、ちゃんとプレイできて懐かしい気分を味わえた。クリアしてみようかな。
とはいえ、エミュレータって入れて起動するまでで熱を使い切るきらいがある。
「パソコンでファミコンできるようにしちゃった!」
「PSPでゲームボーイできるようにしちゃった!」
そんな達成感と若干の背徳感を味わって満足してしまう。ゲームを割ったわけじゃないから背徳もくそもないんだけど。
ちなむと、パンツァードラグーンというシューティングゲームの雰囲気が独特ですき。BGMのエスニックな曲調がやけに耳にのこっている。
他人の夢の話がおもしろかったためしはない
それでも、僕はしたくなる昨日みたカオスな夢の話を。
もちろん、ここでの夢は将来の夢のほうではなく、寝てみる方のだ。
自分の未来を嬉々として語るタイプではない、僕は。
恥ずかしがり屋さんなので。
僕の親父は、変わった夢をみると興奮気味に家族みんなに話してくれる。
しかし、それが恐ろしくつまらない。
親父がつまらないのか、夢の話というものがそもそもつまらないものなのか。
他人の夢の話を聞いて、おもしろかった記憶というものがなかなか辿れないので、
「夢の話はつまらない。」という結論でとりあえずは、良いと思う。
しかし、悲しいかな、僕もおもしろかった夢の話はついしたくなってしまうもので、
母親はまたもや被害者である。
なぜ他人の夢の話はつまらないのだろう。
夢の内容は、言葉だけで表現しようとすればあまりに荒唐無稽すぎる。
見ている間は大抵気にならないけど、いきなり場面や登場人物がかわっていたりしないだろうか。
突然蝶になったり、夢の中で夢を見たり、昔の同級生がでてきたりと
脳は好き勝手に話を展開させてしまう。
まあ当然、そんなデタラメ話に順序もオチもクソもあったもんじゃなくて、
ただただ本人としてはありえない出来事をめまぐるしく体験していること自体に面白みを感じてしまう。
聞いている側としては、内容も薄いし、説明も抽象的でオチもないからさぞかし退屈だろう。まあ夢だしね、そんなこともあるよという感想以外思い浮かばないよね。
映像が伴っていて、やっとその荒唐無稽さがおもしろく感じるものだ。
自分の夢を他人に見せられたら面白いのかもしれない。
ちなみに唯一うけた覚えのある夢の話は、夢精の話だ。
その夢ではパソコンが壊れて、修理の末やっと起動に成功したところで僕は射精した。
あれはびっくりだった。リンゴのマークが画面に表示された瞬間、僕のパンツは濡れていたのだ。
一応いっておくが、この話は母親にはしていない。友達にした話である。
射精という現実パートが伴ってやっと、ちょっと夢の話も面白くなれたのだと思う。
これがもし、夢の中でパソコンの起動に興奮して勃起して射精までしちゃったんだよ、まあ実際起きたら全然勃ってもいなかったけどねという話だったら、きっとダメだっただろう。
でも、こうして文字に起こしてみるとやっぱりそんなにおもしろくない...
夢日記を書くのはやめたほうがいい。
直接誰かに話すと、しらけた反応が否めないので、一時期、夢の話はtwitterに書き込んで話したい欲を解消させていた。
しかし、ここで一つ弊害がでてくる。
夢日記をつけ続けると現実と夢が混同してしまう、と聞いたことがないだろうか。
僕は夢日記をつけている、という意識は当時なかったが実質的に文字に起こしていまっているので夢の内容をしっかり覚えてしまっていた。
おそらくそれが原因で何気ない日常っぽい夢をみると、それがたまに現実だったのか夢なのかあやふやになってしまうという現象に陥ってしまったのだ。
少し前の予定を遡れば、それが夢だったとわかるので、日常生活に異常をきたしたことはなかったが、なんだか怖いのでtwitterにかくことはやめた。
そのおかげか今は夢と現実を混同することはない。
結局、夢の話は自分の中で留めた方がいい気がしてきた。
他人がきいても、おもしろくない。書き留めると、精神的によくない。
夢はみてもすぐに忘れた方がいいのかもしれない。
でも、誰かから聞いた夢の話で、おもしろかったという例があれば知りたいな。
建築ってかっこいいじゃんねえ
安藤忠雄展にいってきた
光の教会の原寸大レプリカがあると話題だったので、六本木に行ったついでに寄ってきた。写真は、実際に入って撮ったもの。(仲間内でカメラがはやってるので家にあった化石みたいな一眼レフで最近あそんでる。)
展示は、えまだあんの?!ってくらい見応え十分なのでおすすめ。
スケッチから手書きの図面、模型、光の教会の現物(レプリカ)まで世界的巨匠の仕事を間近で見られちゃうのは、なかなかないことだと思う。ちょっと歩けば、ミッドタウンに安藤忠雄設計の21_21 DESIGN SIGHT(本物)もあるしね。
僕は一応建築学徒
「建築ってかっこいいじゃんねえ」とか抜かしているが、5年前建築学科に入学してそのかっこいい世界に足を踏み入れようとしてた身分ではある。結果として、今はなんだか建築っぽくない研究をしているし、何なら仕事は建築も研究も全く関係ない超文系みたいなのに就く。
この展覧会、学部一年のときにいっておきたかったなあ、とふと思った。
建築学科での課題を振り返ると、学部2年までは、とにかく図面の手書きでのトレースが多かった。辛かった。つまらなかった。めんどくさかった。
そもそも僕は、絵とか工作が好きだからなんだかクリエイティブなことがしたい!入試に絵の試験があるなんておもしろそう!数学嫌いだけど漢文はもっと嫌いだから理系!文系になったら仕事じゃ営業でしょ〜?俺には無理だな!なんて心持ちで受験に臨んでいた人間ですごーく建築が好きで建築学科を目指したわけではなかった。
そんなわけだから、本来あるべき目指す理想の建築家像みたいなものが不在だった。
安藤忠雄展、光の教会はもちろん圧巻だったが、手書きの図面がよかった。
今の時代になんでこんなに手書きで図面かかせんだよ、手書きの履歴書にこだわる老害かよと大学の課題でクソみたいなCGばっかりつくってた僕もこれを見れば少しはスタンスが変わったかなぁと思ったぐらいに。
手書きの履歴書のほうがその人の人間性が伝わるとかそういうことじゃなくて、図面自体が純粋にかっこいいとおもえた。
こういうのが大学一年生当時に理想として自分の頭の中にあるべきだったんだなぁと感じる。
理想の建築家像のない意識の低い学生の僕は、大学で課題をこなすときの手本を手近なところで済まそうとしていた、回ってくる先輩の図面とか。
やっぱり、それじゃ目標としては不十分で、自分が何をやりたいんだか、課題で何を得られるんだかわかんないまま課題を消費してしまっていたと改めて思う。
設計課題はもとより、図面のトレース一つとっても、目指すべき理想の姿は必要だったという、アホみたいな反省を今更した。
まあ過去にも、大学院の試験を控えて建築史をちゃんと勉強しなおしたときに似たようなことは思ったんだけどね。
とはいっても
別にもっとちゃんと勉強して建築家を目指せばよかった〜なんてことはなくて、
ただこれからこういう失敗はしたくないよなあと思う。
幸い、この反省は生かしやすい?業界で働くし。
大学生「老けたわ〜」な話
2ちゃんねるらへんのスレタイでありがち
高校生を見て物憂げな顔で「若いな〜」って行っちゃうタイプの大学生に辟易する話は擦られすぎちゃったと思うけど、そう言う類の話。
まあ、最近だと同期は社会人2年目だから「もう学生時代みたいに飲めないよ〜」なんて言ってる人もいる。
大学一年で「老けたわ〜」なんて早くも言ってるやつにはくそきもいと思ってた自分だけど、社会人になったら大学生みたらいいな〜ぐらいの感慨に浸っちゃいそうではある。まあ、若いとか云々の話じゃないしね。
ちなみに「若いな〜」を自分が言わない理由として、
20代そこらでそんなこというのは小っ恥ずかしい
今からそんなこと言ってたら本当に気持ちが老けそうで嫌
そもそも気分は永遠の17だぜ、というか24も若い。
が主だと思う。
加えて、
高校時代運動部でなかったため初めから体力が底辺で衰える余地がない
若いと言われる対象の騒いでる高校生(大学生)はそもそも自分とはジャンル違いで感想が「相容れねぇ〜」でしかない
のもあるかもしれない。
この前、
友達が遠路はるばる僕の地元まで営業にきていたので、サボりのお供にランチをしに行った。
割に要領よく生きているやつなので、午前中にある程度仕事を終わらせて、家に帰ったり、誰かを呼び出してランチに行っているらしい。ランチに誘われたのはこれで4回目。
僕が初めにおすすめした3つの店は会って即効で却下され、「地元なんだからもっと俺が好きそうな店知ってろよ」とか好き勝手言われながらも記憶の彼方から昔テレビで紹介されていた店をひねり出し、そこへ向かった。
食べログ3.52のまあまあ繁盛している店。
夜は居酒屋で昼はランチをやっているようで画像の通り、かなりパワーのある丼を出してくる。
「めっちゃ良い店知ってんじゃん。最初からここ連れてけよ^^」
と食べ始めは偉そうながらもご満悦の様子の友人。
しかし、
「うまいけど、途中で飽きるわ。胃もたれるし、多い。学生街にあったらめっちゃ流行りそうだよね。」が店を出た後の論評。
これだけ読むとくそわがままなゴミだと思ってしまうが意見には同意である。
確かにうまい、店として雰囲気も悪くないし、全然あたりを引いたと思う。
ただ少し疲れる。
特に大学1、2年のころは、こういうデカ盛り、大食い系の店にいくのが楽しかった覚えがある。ラーメン二郎とかが顕著な例。
当時としても苦しみながら食べていた面はなくもないので、「消化器系がぁ〜」とかいって衰えアピールをするつもりは毛頭ない。
でもやっぱり、自然と店を選ぶスタンスは変わって行ったように思う。
普通においしいものをちょうど良い量たべたいかな、当たり前だけど。
食に対して、無駄ながんばりを発揮しなくなったことについては
「老けたわぁ〜」って言っちゃう?